コロナを嘆くブログが山ほど書かれているコロナ期の世で書くほんのちょっとコロナに触れてるブログ記事
ほんのちょっとの出来心で久しぶりに自分のブログを見てみた。
はてなブログというものは、自分のブログのアクセス数を見ることができ直近31日分の記録が残されれている。開設以来の総アクセス数も見れる。当ブログは2020年4月27日22時現在2206回だそうです。多分半分ぐらいは僕が犯人なので1000件ぐらいは誰かが見た回数だと思われる。そのうち半分ぐらいはじんぺーによるので、残り500件。一度のアクセスにつきトップページ→記事ページ→トップページ→記事ページのようになるので、1人につきまぁ平均3回だとするとおよそ170人に見られていることになる。恐ろしい。
170人に見られていると思い浮かべると、少しパソコンの前で背筋が伸びる気がする。少しだけ。やぁこんにちは、どこかの誰かさん。
そしてなお恐ろしいことに前回の投稿から1年以上経過しているにもかかわらず、直近31日の間に105回のアクセスがあるのである。なんだ?暇なのか?世の人たちは暇なのか?
そう、暇なのである。
いまやテレビをつければ“見ない日はない”どころか一日の感染者数より報道回数のほうが多いんじゃないかという勢いで席巻しているコロナ。
その影響で自宅待機を強いられた(自宅待機に賛同した)多くの人たちが暇を持て余しているのである。本来であれば家の外に飛び出していきいきとハツラツと活動していた子供たちは家の中で留まるしかなくその有り余る活力は発散の場所をなくし、飼い慣らされていた社畜たちはいつになったら働けるんだと思いながら檻のなかでやむに已まれずシビレを飼い殺している。
コロナがもたらしている影響の大多数はそれはそれは不幸なもので、患者当事者様のみならず世だ世間だの動きの中で人の動きが止まり飲食店も営業中止だけでなく閉店にまで追い込まれ、それにともない行き場をなくした野菜たちは誰の口に運ばれることなくそのまま土に還らされ生産者は心と懐と未来がいためつけられている。
医療機関で働く人は身の回りの人たちやどこの誰だかわからない世間の人の心無い風評被害の風に曝されつつもきっと毎日目の回る忙しいさで最前線で仕事をしている。足を向けて寝られない。
そんな悪影響の風が吹き荒れる中、のうのうと鼻をほじりながらパソコンを触るわたしはどこへもかしこへも足を向けて寝られないので、仕方なく自分の家からどこへも出ずおとなしく部屋の隅で膝を抱えて眠ることにした。
有り余る時間のなかで愛しい愛しいBUMP OF CHICKENを検索した罪もないファンの人たちがBUMP OF CHICKENの名前をぶら下げただけのポエムブログなんかに嵌ってしまってたりなんかしないだろうか。まことにいたましい。これもコロナ被害といっても過言ではない。そんなことが起こらないことを祈るばかりである。バンプ BUMP ブログ 考察
さて、
自宅待機をしているみなさまの中にはhu-luなどを用いて過去のドラマを観ている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
私も最近TRICKを観ました。しってますか、TRICK。私の人生の中で10本の指に入るくらいに面白いドラマです。アンナチュラル、過保護のカホコ、GTO、人にやさしくなども入ります。どれも、見たことない人は見たほうがいいです。コロナ期のお供にどうぞ。
TRICK、結構古いドラマで3期もやっててスペシャルドラマも映画化もされてるシリーズなんです。最初期のTRICKがテレビで放送されたのは2000年ですって(調べた)。
私当時小学生です。細かいネタや心の機微など、大人になって初めてわかることも多かったです。そもそも、いくら私が地元で神童と謳われた小学生だからと言ってもずいぶんと昔の記憶です、話すらあんまり覚えていませんでした。見直した価値はありました。
昔観てたTRICKを再度観た私は3つの体験をしました。
①物語をたどる。
②昔気づけなかったことを、今は気づけた
③昔観ていた時期のことを再体験
こうやって数字で上げて記述するとちょっと格式高いブログみたいですね。脱ポエムブログ。
①については特に書くことはありません。面白かったです。9本の指に入ります。
②について。多分当時の私は巨根と貧乳の意味は分かってなかったと思います。しかし!今は!わかる!よく家族でこんなドラマ見てたな。 あとシュールな笑い。
③がこの記事のメインイベントです。
ドラマを観たことを再体験と言っているのではありません。観ていた当時の思い出が思い起こされたのです。
そして一番強く主張したいのは、“思い出の再体験がいかに私に感慨深く響いたか”を書き述べたとしても全く誰も共感できないし面白くもなんともないということです。
例えば、当時の小学校では休み時間にキックベースが流行っていたこと、小学校から引っ越した私はキックベースのルールを知らずトラウマになった出来事があったこと、家への帰り道の長い坂、大雨のなか傘を持って行かずびしょぬれになって一人で帰ったこと、
そのどれもをだれとも共感できない事実。
音楽や映像、場所には当時の記憶が宿ります。見聴きするたびに記憶を思い起こす装置になります。それらはとても素晴らしいものであり素晴らしいことであります。ですがその一方、どうあがいても共感できないという事実も同時に引き連れてきます。
その切なさを歌ったのが今回ご紹介させていただく『R.I.P』でございます。
そこに君がいなかったこと そこに僕がいなかったこと
こんな当然を思うだけで 今がこれほど
シングルバージョンではこの歌詞から曲が始まります。
ダイナモの音 うねる坂道 憧れのギア いじっただれか
ざり釣り帰り 謎のサーチライト 始まり探し 迷ったら夜
ダイナモは手動発電機のことです。うねる坂道・憧れのギアから連想して自転車、ダイナモは自転車の前のライトのことだと思います。
ここの歌詞から、小学生が連想されました。
不思議が忘れるくらいあった
そのいくつかの魔法はもう解けてしまった
原理や理屈がわからなくて不思議で、まるで魔法のように見えていたけど大人になるにつれて様々なことを知っていき解明できて、魔法じゃなくなった
ともとれますし、
『記念撮影』で学生時代のことを“終わる魔法の中”ととらえていたことを踏まえると小学生の頃のこと自体を“魔法”ととらえているとみてもいけそうですね。
長靴は嫌い 傘は大好き 重ねたらほら これ秘密基地
自転車置き場 会いに通った しっぽの生えた内緒の友達
ちなみに僕は傘は嫌いでした。これも共感してもらえないし面白くもない過去です。
しっぽの生えた内緒の友達は猫です。
言えないことが今よりあった 寂しいのはなくしたからじゃない
小学生だから自分の気持ちが言葉に直せず“言えない“と表していると評するひとをお見かけしたことがあります。まぁ曲解釈なんて人それぞれなのでケチつけるもんじゃないんですけど、それよりも”秘密“”内緒“だから言えないのほうが前の歌詞を取り酌んでる感じがして好きです。
なくしたからじゃないならなんで寂しいの?の疑問を残して次に進みます。
そこに君がいなかったこと 分かち合えない遠い日のこと
こんな当然を思うだけで すぐに景色が滲むよ
はい、これが理由でした。サビ。
体温計でずるして早退 下箱に斜陽 溜息一つ
母の日の朝 父さんとシャベルでしっぽのついた友達の墓
下駄箱に斜陽?溜息一つ?なんだそれ?と思うかもしれません。
解決しません。私たちは共感できません。藤原さんの記憶なので。なので傘が好きなことに共感できなくても問題ないのです。
悲しいことは宝物になった
君もきっとそりゃもうたくさん持っているでしょう
悲しいことだって宝石になるし、宝石は高く浮かべて名前つけるし、星空は僕らが作るし、あの星も君のための舞台照明だし、なにかが変わったわけでもないけど、地球の上、地面は360度すべて道なのです。(脱線)
そこに僕がいなかったこと 今はそばにいられること
こんな当然を思うだけで 世界中が輝くよ
サビ②
同じもの見られたら それだけでいい
同じ気持ちじゃなくても それだけでいい
変わっていくのなら すべて見ておきたい
いなくなるなら いたこと知りたい
僕がいれなかった君の過去を僕も見たい(同じ場所時間にいたかった)
当時あなたが抱いた気持ちと今の僕が当時のそれを見たときに抱く気持ちが違ってもいい
見たい、超見たい、全部見ときたい てきな。
歌詞前半で、“あぁ~わかるわ~、子供の時のあるあるネタやな”と思わせつつ、
溜息一つとかよくわからんことも入れてくる。
世の中に何人の人が“母の日に父ちゃんとシャベルでしっぽのついた友達の墓作った思い出”あるだって話です。
無理です。共感できません。
そう、自分の思い出紹介して、「ね無理でしょ、同じように君の記憶も言ってくれる分には全然かまわないんだけど全然共感できないんだごめんね(だから見ておきたかったんだよ!!)」
そして
「え!?じゃぁ今一緒にいれるってすごくね?やばくね!?」
です。以上です。
はい、とまぁ
暇を持て余していつも以上に長く書きました。
R.I.Pの歌詞はまだ続きますが諸事情につきここまでです。
飽きたからです。
すごい、3600文字ですって。
軽くレポートやん。これは流行らんブログやわ。