ガラスのブルース第2項目。

『話がしたいよの話がしたいよ』と同様、2部構成でお送りしております、申し訳ございません。

前回の振り返り、基いアクセス稼ぎとして前回のリンクを張っておきますので、まだ前回の投稿をご拝読頂いてない方はどうぞこちらの記事もお読みいただけたらと思います。どうぞよしなに。

haruzion55.hatenablog.com

 

 

 

では、歌詞解釈と参ります。

今回は歌詞の途中に自身の解釈を挟んでいくスタイルにしてみました。

至らない部分も多分にあると思いますが、「へぇこんなふうに読み取るバカもいるんだな」と、みなさまの解釈の一助になり得たならこれ幸いでございます。

 

 

ガラスの眼をした猫は唄うよ 大きな声で りんりんと

ガラスの眼をした猫は唄うよ 風にヒゲをゆらし りんりんと

何百回も繰り返し聴かれたBUMPマスターの皆々様におかれましては何の違和感もなく受け止めておられるやもしれませぬが、ツイ廃ではない私でさえ「ちょっと待って」と言いたい箇所がもうすでにございます。

ちょっと待って猫ってりんりんって鳴くの!?

どう考えてもニャーンです。100歩譲ってもにゃんにゃん。アメリカ人でもmeowです。どう聞き間違えても「りんりん」にはならないように感じます。

“ガラスの目”ってのはまぁたとえとして受け止められますよね。ガラスのような眼って事ですよね。瞳。で、その猫が唄ってます。りんりんと。

 

りんりん?猫が??

 

ここで私には2つの候補が浮かびました。

・はい、りんりんは猫の鳴き声のことです。

・いいえ、りんりんは猫の鳴き声ではありません。

もし、『はい、りんりんは猫の鳴き声のことです。』なのであれば、文末についている“と”は「チャマはヒデちゃんに向かって言った、付き合ってくださいと」と同じ“と”で、

『いいえ、りんりんは猫の鳴き声ではありません。』なのであれば、「ヒデちゃんはチャマに向かって微笑んだ、ニヤニヤと」と同じ“と”になります。

この“と”をどう捉えるかは、述語が“唄う”であることがヒントになります。

その答えは、曲が終わる頃解き明かされます。今はまだわからないまま、先に進むことにしましょう。

ネタを小出しにして読者を引きつける作戦です。気になる人はこの後もお読み下さいヒッヒッヒ。

 

声が枯れたなら川に行こう 水に写る顔をなめてやろう

 

この部分を、

“声が枯れたから川に行って水を飲んだ”と捉えている人がいるかもしれません。

もちろん喉を潤したのも事実でしょうが、ここで大切なのは喉を潤した事よりも「顔をなめ」た事です。視覚的に客観的に、目の前にいるヤツの顔をなめたのです。“目の前にいるヤツ”って、詰まるところ自分自身な訳ですけど、“自分で自分をなめた”ってよりは“自分がなめたヤツが自分だっただけ”の方が近いと思います。

「顔をなめ」るのが良い意味で使われているのかマイナスの意味で使われているのかはこの後を読めばわかります。

 

昨日よりマシな 飯が食えたなら

今日はいい日だったと 空を見上げて笑いとばしてやる

(「藤くんのカタカナには比喩やダブルミーニングが隠されてるだ!」論者って、ここでもダブルミーニングだと思ってるんですか?思ってないとしたら例外生まれてますけどそれで妥協していいんですか??どうなんですか????)

 

・『“声が枯れた”なら』

・「“昨日よりマシな飯が食えた”なら」

の対比です。

“声が枯れた”の後に来る“顔をなめ”るが良い意味なのかマイナスの意味なのかは、対比の先を見ればわかります。「空を見上げて笑い飛ばしてやる」。

 

「笑っちゃうぜ」ならまだしも、「笑い飛ばして“やる”」

“やる”という言葉は、明確な意思の言葉であり、しなくてもしなくてもいいことをわざわざ行動する言葉です。

例:『チャマになにかあったならオレ(ヒデちゃん)が守ってやる!』

わざわざ「笑い飛ば」すのだから、目的語は“ないほうが良い事”です。

チャマにはなにもない方がいいんです。でもあってしまうんです。だから守ってやるんです。

猫にも、“それ”はない方がいいんです。でもあってしまうんです。だから笑い飛ばしてやるんです。

 

「笑い飛ばしてやる」。この言葉からあなたが感じたニュアンスが、「顔をなめ」るの意味です。

 

僕は けなげさ・いじっぱり・(弱さの裏返しの)強がり、でした。

だからそのあとの

ああ 僕はいつも 精いっぱい歌を唄う

ああ 僕はいつも 力強く生きているよ

が、めちゃめちゃ響きました。Toマイハート。

力強く生きている感じがしました。

 

 

ガラスの眼をした猫は唄うよ お腹が空いても りんりんと

ガラスの眼をした猫は唄うよ 生きてる証拠を りんりんと

ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 短い命を りんりんと

ガラスの眼をした猫は叫ぶよ 大切な今を りんりんと

また出ました、「りんりんと」。

はじめのところより強い言葉が「りんりん」と書かれています。「短い命」「大切な今を」。

それに呼応して、「唄う」から「叫ぶ」に変わります。より切実さが増す気がします。

「唄う」と「叫ぶ」は強弱は違えど同じジャンルの言葉(同じグループの言葉)として用いられている事がわかります。

 

生まれて来た事に意味があるのさ 一秒も無駄にしちゃいけないよ

嵐が来ようが 雨が降ろうが

いつでも全力で 空を見上げて笑いとばしてやる

中二病的な“生まれてきた意味”とか“何のために生きてるんだろう”からのコペルニクス的転換、“いいや違う、「生まれて来た事」こそに「意味がある」”という歌詞。「生まれて来た事に意味がある」んだから、今生きてる一秒一秒に意味が無いわけがない。純粋に「ええ歌詞やん」って思います。

猫にとっての「嵐」や「雨」は僕らにとっての何になるんでしょう。そして僕らは「嵐」や「雨」」の時、この猫のように笑い飛ばせるでしょうか。そうなれるように生きていこうぜと鼓舞しているようにも感じとれました。

そして「マシな飯が食えたら」とかじゃなく、「いつでも」フルパワーで笑い飛ばします。

 

ああ 僕はいつか 空にきらめく星になる

ああ その日まで 精いっぱい歌を唄う

「空にきらめく星」は言わずもがな、命が終わった時でしょう。

それまで、「その日まで」、「精いっぱい」「歌を唄う」

もう、猫じゃなくて藤原基央が見えます。もう藤くんがギターを掲げています(幻視)

 

声が枯れたなら川に行こう 水に写る顔をなめてやろう

生まれて来た事に意味があるのさ 一秒も無駄にしちゃイケナイ

だから僕は歌を唄うよ 僕はいつも歌を唄うよ 僕はいつも歌を唄うよ

僕はイマをサケブよ 

前回の記事で書いた、『以前と異なるメロディーでの歌詞の引用』の部分です。すなわち、歌詞が繰り返されている部分。

 

ところで、高校の頃のセンター試験対策として、英文の“Butの後には筆者の伝えたい事が書かれている”というワンポイント攻略を教わった人も多いのではないのでしょうか。

同様に現代文では、“だからの後には筆者の意思が記されている”ということを学んだ方も多いのではないかと思います。

そうです、歌詞とはいえ文章です。“ だからの後には筆者の意思が記されている”と見なしてなんら問題はないはずです。

「僕は歌を唄うよ 僕はいつも歌を唄うよ 僕はいつも歌を唄うよ」

四畳半の一室から望遠鏡で砂漠の中の一粒を見つけるような作業の中で書き記した歌詞です、“書きたい事“がないわけがありません。とするなら、書きたい事を繰り返し記した方が強い歌詞になると思うのは至極真っ当な思考ではありませんか。すなわち、楽曲において繰り返されている言葉というのは、その楽曲において作者が書きたいと思っている部分と捉えるのもまた至極真っ当な解釈ではないでしょうか。繰り返される「僕はいつも歌を唄うよ」「僕はいつも歌を唄うよ」

繰り返されたのち、放たれるとどめの一撃。

 

「僕はイマをサケブよ」

 

僕はここを聞くと、

名曲、桑田佳祐の『白い恋人達』を思い出します。

Ah,ah, 永遠のWhite Love

My Love

 

ただ逢いたくて

もうせつなくて

恋しくて..

 

曲終盤でサビが繰り替えされたのち溜めに溜めて放たれる「涙」

あふれる思いを押しとどめて押しとどめて、風船が破裂するようにダムが決壊するように張り裂ける思い。

「僕はイマをサケブよ」

 

ガラスの眼を持つ猫は星になったよ 大きな声も止まったよ

命のカケラも燃やし尽くしてしまったね 得意のブルースも聴けないね

 

どうでもいいんですけど、ブルースって聞いた事あります?

専門家でもなれば細分化された音楽ジャンルを正しく分類化することは出来ないように思うのですが、ここで使われてるブルースって、厳密に細分化されたジャンルとしてのブルースじゃなくて、イメージ・概念としてのブルースと捉えた方が良いと思うんですけどどうでしょう。

ブルースってなんぞ??っていう人はグーグル大先生に聞いてみてくださいね。

 

だけどオマエのそのブルースは 皆の心の中に刻まれた

これからツライ事がもしあったなら 皆は唄いだす

ガラスの眼を持つ 猫を思い出して

空を見上げて ガラスのブルース

猫が唄っていた歌が、周りに影響を与え、皆が唄い出す。ガラスのブルースを。

皆は、イマを唄った猫の姿を脳裏に浮かべ空を見上げてガラスのブルースを唄う。

猫は『空を見上げて』『笑い飛ば』す。

皆は『空を見上げて』『唄』・いだす。

猫って空にきらめく星になりましたよね。

空にいる猫に向けて唄っているというのは邪推でしょうか。

 

ああ 僕はいつも 精いっぱい歌を唄う

ああ 僕はいつも 力強く生きているよ

ああ 僕の前に クラヤミがたちこめても

ああ 僕はいつも 精いっぱい歌を唄う

「僕」は「皆」の中の一人でしょう。

「皆」を先に言っているので。「僕」が『僕ら』というふうにも聞こえてきます。

 

自分への決意にも聞こえ、空にいる猫への決意にも聞こえます。

 

 

 

猫にとって「唄う」ことは「叫ぶ」ことであり「サケブ」ことでした。

そして「サケ」んでいたのは「イマ」でした。

すなわち「唄」っていたのも「イマ」でした。

述語:「唄う」の目的語は「イマ」でした。

「りんりんと」。

 

 

ガラスの眼をした猫は大きな声でイマをりんりんと唄っていました。

 

凜々と。

 

 

以上です。

ご拝読ありがとうございました。