クオリア
今回の記事はいつもみたいなただのどうでもいい戯れ言と思いきや、実はちょっぴり貸し解釈のための伏線であるようにみせかけて、どうでもいい戯れ言である。
※この記事に関する一切の責任を私は負いません。
クオリアという言葉をご存じだろうか。
北海道の寒い海にいる妖精はクリオネであるし、
めっちゃサッカーうまいひとはクリロナ、
中を刺激せず入り口上部の器官を指で刺激すr・・・これはやめときましょうか。
とりあえず、ややこしい似たような単語が数あれど、今回はクオリアである。
クオリアとは、
いま感じとってるこれ!!!
のことである。
これ!!!
といってもまぁ伝わらんでしょう。
では具体例を出して説明していきます。
今僕が下唇を全力で噛んだとしましょう。
いや、皆さんも一緒にやってみましょう。
下唇を噛んでください。
全力で。
噛みましたか?
痛いですよね?
それがクオリアです。
“痛み”のことをクオリアといっているのではありません。
“痛みの程度”をクオリアといっているのではありません。
痛みが脳に伝わり、あなたが抱いた痛い感覚、それがクオリアです。
ちょっとだけ伝わりましたか?まだですか?
もうちょっと説明続けますね。
では下唇をかみ切ってください。
怖いですか?
大丈夫です、僕も一緒にします。
安心してください。
あ、そうそう、その怖いという感覚もクオリアです。
はい、かみ切りましたね?
血が出てきましたね。
何色ですか??
そうです、赤です。
このとき、赤のクオリアが発生しています。
だいぶ伝わりましたか?クオリア。
今抱いた感覚・実感のことです。クオリア。
唇の手当、気をつけてくださいね。
クオリアは
日本語では感覚質と訳されるそうです。
クオリアの面白いところは、
相手に説明できない・相手のクオリアと自分のクオリアが同じかどうか違うかどうかを確認できない
という点です。
例えばさっき僕たちは唇を噛み“痛み”を感じました。
しかしそれが”おなじクオリア”なのかを比べられないのです。
注意してください。
“どっちの方が痛いかを比べられない”と言っているのではありません。
大なり小なり程度の問題はあれど、”痛みというクオリア”が同じなのかどうかを比べられないのです。
わかりづらいので二人登場人物を出して話します。FくんとCくんです。
ふたりは色について話します。
しかし、Fくんの脳は赤で赤色のクオリアを感じてますが
Cくんの脳では赤で黒色のクオリアを感じています。その違いがわかるのは神の視点の僕らだけです。
つまり
Fくんは赤は赤色に見えてるけど、
Cくんには赤は黒色に見えている、ということです。
そして”相手のクオリアを確認できない”とは
どうがんばってもFくんは「Cくんが赤で黒色のクオリアを感じている」ということを確認できないということです。
F「血って赤いよね」
C「せやな、血は赤いな」
F「赤って、赤だよね」
C「せやな、赤って赤やな」
F「トマトも赤だよね」
C「せやな、緑とかもあるけど大体赤だね」
F「先生が使う色ペンも赤だよね」
C「せやな、ボールペンだったりサインペンだったり使ってる種類はいろいろあるけど大抵赤だね」
F「あの、燃えたぎるような、危険を感じるような色のことだよね」
C「せやな、精神的興奮を意味する目立つ色だね」
ということです。
Cくんは赤色に黒のクオリアを感じているのでどれだけ確かめ合おうとしても“え、おれらの赤のクオリアちげーじゃん!!”とはならないのです。
どれだけ言葉のやり取りをしても、どれだけ自分の体感を伝えても、
自分のクオリアを相手に体感してもらうことはできませんし
同時に相手のクオリアを体験することもできないのです。
言葉で伝えても 伝わったのは言葉だけ
Cくんも、Fくんが赤で赤のクオリアを感じていることには気づけません。
そしてクオリアの最も恐ろしいところは、そもそも“相手がクオリアを感じているかどうか”を確かめることができないところなのです。
次回、『哲学的ゾンビ』に続く。
※バンプの歌詞を引用しておりますが該当歌詞は曲中でクオリアという意味で使われているわけではありません。思い出の共有・実感体感という意味で用いられています。